ブナのスイッチは、350メートルで入った
この日いちばん印象に残ったのが、ブナの現れかたでした。標高350メートルあたりから、ぽつりぽつりとブナが混じりはじめる。400メートルを過ぎるとミズナラが増えてくる。山頂は848メートルですから、山の高さの半分にも満たないところで、もう冷温帯の森の主役が顔を出していることになります。
なぜ、こんなに低いところからブナが出てくるのか。考えられる理由はいくつか重なっています。
- 南昌山は奥羽山脈の東のへりに位置し、冬の季節風がぶつかって雪が多く、夏も比較的涼しい。
- 登山道が沢筋に沿っていて、谷底には冷たい空気がたまりやすい。冷気は坂を流れ下るので、沢沿いでは「標高が下駄を履く」ことになる。
- 雪が遅くまで残る場所では、地面の乾きにくさがそのままブナの好む条件になる。
標高848メートルという数字だけを見れば、南昌山は高い山ではありません。それでも山頂はブナの森になり、ふもとから1時間ほど登っただけでその入口に届いてしまう。低いのに、山地の森を持っている——これが南昌山のいちばんの個性だと思います。
いちばん種類が多いのは、中腹だった
推定樹種数をもう一度見てください。山麓が約18種、中腹が約30種と約36種、山頂部が約20種。もっとも賑やかなのは、ふもとでも頂上でもなく、そのあいだでした。
理由はたぶんシンプルです。中腹は、下から来た顔ぶれがまだ残っていて、上の顔ぶれが入りはじめている場所だから。コナラやアブラチャンがまだ元気なところへ、ブナやミズナラ、ホオノキ、ハリギリが加わる。重なった分だけ、種類が増えるのです。
植生の境目は、線ではなく、幅のある帯です。こういう重なりの帯を「移行帯」と呼びます。考えてみると、これは森にかぎった話ではありません。海と陸のあいだの干潟、田んぼと林のあいだの畦、川と岸のあいだの河原。境目には、いつも両方が居る。そして、たいてい境目がいちばん賑やかです。
標高だけでは決まらない——もう一本の軸
高度分布の図はきれいに整理されていますが、現地を歩くと、標高だけでは説明のつかないことがたくさんあります。いちばん大きいのが沢筋です。
サワグルミ、カツラ、トチノキ、オニグルミ、ハクウンボク。これらは「低い木」でも「高い木」でもありません。水が近く、土が深く、空気が冷たく湿っている場所を選ぶ木たちです。だから同じ標高250メートルでも、尾根の上と沢の底ではまったく違う森が成り立ちます。
サワグルミが広い標高範囲でずっと見られたことは、この日のルートが沢や湿った斜面に寄り添いながら上がっていたことの裏返しでもあります。森を読むには、等高線のほかに水の線も重ねなければいけない、ということです。
森に残った、人の手のあと
もうひとつ、標高では説明できないものがあります。人の歴史です。
今回いちばん目立った木はアブラチャンでした。林道沿いに、標高500メートル付近まで数えきれないほど。これは「アブラチャンが低山の木だから」というより、林道を切り開き、木を伐り、下草を刈ったあとにできた明るい林縁を、この木が上手に使っていると読むほうが自然でしょう。
ヤマハンノキが600メートル付近まで多いのも気になります。ヤマハンノキは崩れた斜面や法面にいち早く入る木で、治山工事で植えられることもあります。もし列をつくって並んでいたり、同じ太さの木がまとまって生えていたりすれば、それは植えられたサインかもしれません。
そこへニセアカシア、コウゾ、ヤマグワ、クリが加わります。薪や炭をとった林、紙をすくためのコウゾ、蚕を飼うためのクワ。樹種リストは気候の記録であると同時に、土地利用の記録でもある——そう考えると、60種の並びはいっそう面白くなります。
オヒョウは、どこから来たのか
この日、標高400メートル付近でオヒョウが見つかりました。ニレの仲間で、この地域ではなかなかお目にかかれない木です。先端が3つに裂ける独特の葉を持っています。
なぜここに、という問いに対して、考えられる筋は2つあります。ひとつは、上のほうから種が流れてきたという説。オヒョウの実は薄い翼を持っていて、風にも水にも乗ります。沢を流れ下って、たまたまここで止まった。
もうひとつは、ここがたまたまオヒョウに合っていたという説。冷たくて湿っていて、土が深く肥えた場所。オヒョウはそういう立地を好みます。
じつは、このふたつは対立しません。種が届くことと、届いた先で育てることは、別の条件だからです。種は風まかせでも、定着は場所まかせではない。次にオヒョウを見つけたら、まわりにサワグルミやカツラ、トチノキがいるかどうかを見てください。いれば、そこは「オヒョウが育てる場所」です。